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甘酒との所縁
重吉八幡社について
重吉八幡社は、筑前国(現在の福岡県)筥崎八幡宮の別宮とあり、御祭神は応神天皇です。
筥崎八幡宮には、神功皇后の朝鮮征伐の凱旋時に応神天皇を出産し、その際の胞衣(胎盤)を箱に納めて埋めた。その時、地元の方々が、凱旋と安産祝いに甘酒を母子に差し上げ、強飯で将兵を労った伝承があります。
筥崎八幡宮の別宮である重吉八幡社の甘酒祭りは、この伝承に基づいて行われています。
重吉八幡社の創立は、三井重吉城を築城した城主の尾藤氏がこの地に移住した大永年間(1521~27年)頃と言われており、1548年 (天正12年)の小牧合戦の際に豊臣秀吉が当社に戦勝祈願をし、その頃には甘酒祭も行われていたようなので、非常に古い歴史があります。
重吉甘酒祭の起源
重吉甘酒祭は、1548年 (天正12年)の豊臣秀吉による戦勝祈願の伝承以前から行われている事を考えると約570年近以上の歴史があります。この祭は三井重吉城の城主『尾藤源内』の子孫の桑山氏の行事として行われていましたが、1897年(明治30年)頃、免租地(税金を免除された土地)となっていた神田『甘酒田』6畝歩(約600㎡)を村に寄付した事から、村全体の行事となりました。
祭りの目的は村の豊年感謝(収穫祭)と、甘酒や強飯を食べる事で悪病災難を祓う事です。
昔は旧暦8月15日(新暦の9月後半ごろ)に行われていましたが、近年は10月第四日曜に変更されて行われています。
昭和58年の文献(教育愛知10月号)には、1913年(大正2年)頃、村で赤痢が大流行し、その際に祭りを中断していたことによる神罰と考え、再開したことが書かれています。甘酒祭によく見られるのが疫病などの祟りを祓う点ですが、昔から、甘酒を飲むことによる滋養強壮は江戸期に流行する以前から、体感的にわかっていたのではないでしょうか?
その当時の祭りの流れは、前日の甘酒仕込みに当日の朝は公民館にて甘酒振る舞いを行い、14:00には神社に移動する。14:00から式典と神楽が執り行い、祭りの終わりには甘酒と強飯を撒き散らし、桶を壊し、その壊れ方による験担ぎをしていました。
ここで、その当時のと記載した理由は、現在の祭の様子と比較しながら記載していきたいと思います。
重吉甘酒祭の感想
2018年10月28日よ重吉甘酒祭りの感想
本日は2018年10月28日(日)で、朝はひんやりとした空気でやや寒く、尾張一宮駅前の電光掲示板には13℃と表示されていました。天気は快晴で良い祭り日和でしたが、もうすぐそこまで冬がやってきているといった感じです。
公民館での甘酒振る舞い
この祭りでは、14時の甘酒祭りの前に先立って、10時から重吉本郷公民館にて甘酒振舞いが行われます。
御神前にお供えする前に甘酒振る舞いが行われるのは珍しい!神前にお供えする甘酒と強飯は事前に用意されていました。
この時に村人みんなで談笑しながら甘酒を飲むことから、この村の甘酒は『和み酒』とも呼ばれています。
甘酒用の麹は甘酒田で獲れた米を地元の麹屋さんで麹に加工したもの。以前は、村に麹を作る室がありましたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒壊してしまい、それ以来、地元の麹屋さんに依頼しているのだとか。
甘酒の仕込みは、祭りの前日、早朝から始まり、夜は2時間交代で温度の管理をし、翌日朝に出来上がります。
※その年の気温によって出来に違いがでるとのことで、今年はかなり寒かったようです。
甕4個分も造っており、圧巻です!甘酒を造る為の麹をほぐすのも、甘酒を造るのも非常に大変な作業なのだとか…
甘酒は麹と水だけで造る全麹仕込みの甘酒です。その味わいは香りがほのかに果実味のある麹の香りが立ち、風味も癖が少ない麹の栗花香が仄かにあります。甘さ旨さ共に程よく強く、極ほのかに酸味がある為、味の締まりが良い。麹の粒は柔らかく口溶け、喉越し共に良い一品でした!さらに話の中で糖度を測る機会を頂き、糖度は23.4%でした。
色々な地域の甘酒を飲みましたが、ここの甘酒は香り、味共に麹の味わいが活かされた本当に美味しい甘酒です!この甘酒なら神様も地域の方もご満悦なはず!
甘酒を飲み干すと甘酒茶碗の底には、『神甘酒』の文字が…これは神前にお供えする甘酒である事を表しているのでしょうか?
公民館での甘酒振る舞いの後、午後からは公民館から八幡社に移動し、甘酒祭が催されます。
八幡社での甘酒祭
13:45に公民館から八幡社へ、甘酒と強飯、そして巫女さんや笛太鼓の行列が出発します。
14:00頃に甘酒祭りの式典が開催され、神楽殿にて笛太鼓が鳴り響き、巫女さんが2人づつ計10人ほどが神楽を舞う中、本殿にて式典が開催されます。
式典が終わると裸の男性12人程が甘酒と強飯の入った桶を社殿から持ち出し、観客に甘酒や強飯を声を掛けながら配り歩く…あら?撒き散らさない!?
式典中に整列していた男性の手には衛生面に配慮した手袋と紙コップが…
ここで面白かったのは強飯の入った桶の底に杉の葉が敷き詰めてあったこと、何のために引いてあったのかは分かりませんが、コメの香りが非常によく美味しかった。
そしてなんと!!14:30頃にはすべての工程が終わり、祭が御開きとなりました。
苦労して甘酒を造られた時間を考えると甘酒祭自体は凄く早く終わってしまった印象です。
ここで、35~8年前の甘酒祭りの様子を振り返ってみようと思います。
35~8年前の祭りの様子と現在を比べてみて
1980〜83年(昭和55〜58年)の重吉甘酒祭りの様子
昔の祭りの流れは、昭和58年に発行された教育愛知10月号、昭和55年に八幡社社務所から発行された奇祭甘酒まつりより参照致しました。
甘酒造りは祭り前日に仕込み、夜には2時間交代で管理をします。
翌朝10:00には完成して、地域の人達でたらふく飲みながら、談笑する。
13:45に公民館から八幡社へ、甘酒と強飯、そして巫女さんや笛太鼓の行列が出発します。
14:00頃に甘酒祭りの式典が開催され、神楽殿にて笛太鼓が鳴り響き、巫女さんが2人づつ計30人ほどが神楽を舞う中、本殿にて式典が開催されます。
式典が終わると裸の男性30〜40人が甘酒と強飯の入った桶を社殿から持ち出し、観客やあたり全体に撒き散らし、最後に空になった桶を神社の第1鳥居に投げて、落ちてきた壊れ方で、翌年の豊作を占います。
甘酒を撒き散らす際は、逃げる人もいれば、無病息災の御利益ある甘酒と強飯を頂こうとする人々でごった返したそうです。
16:00頃にはすべての工程が終わり、祭が御開きとなります。
まとめ~昔と現在の重吉甘酒祭を比較しつつ~
昔と現在では約35年の月日が経ち祭の様相に大きな変化がありました。
子供の数は1/3に、裸の男性も1/3、祭りの時間も1/4になっており、甘酒や強飯を用いた儀式や桶による験担ぎもすっかり変わってしまったことが見て取れます。
話を聞く中で、祭りの担い手の大人がサラリーマンが多く時間が取れなかったり、子供の数が減ってしまったなどの他の地域でもよく上げられる理由が見えてきました。
昔と比べて現在は、生活の範囲が広がり、地域のコミュニティだけに限定されない人間関係の構築も容易になり、食料に関する事情も考え方もまったく変わってしまいました。その為、毎年の実りを切実に願い、収穫を神様に感謝する気持ちも昔より弱くなりつつあるのかもしれません。
それでも、本格的な美味しい甘酒造りを継続し、出来る限り祭を大切にしている人々の様子を見ると、御神事も伝統文化として残していけるような手助けももっと必要なのかなと感じました。
甘酒祭の情報
開催日:10月第四日曜に開催(甘酒振る舞い(公民館にて)が10:00〜、八幡社にて甘酒祭14:00~)
最寄り駅:尾張一宮からバス(九日市場行き)で20分の三ツ井(えたけ)下車、徒歩10分
住所:愛知県一宮市丹陽町重吉字北屋敷350
一宮市市役所:http://www.city.ichinomiya.aichi.jp/shisei/keizai/1010115/1000007/1004924.html